隣の部屋がうるさい。壁の薄いボロアパートでは周りの音が丸聞こえだ。どうやら隣に人が引っ越してきたらしい。
「張田と言います。よろしくお願いします」
二十代前半の痩せ型の男だった。年季を感じる黒い眼鏡をかけており不健康そう、と言うのが第一印象だった。話を聞くと大学院で脳の研究をしているらしい。
「脳の研究ってどう言うものなんですか?」
何気なく尋ねると、彼は笑って記憶ですよ。と答えた。
「人間の記憶をどこかに保管できるか、それを人に移せるか、とか。色々ですね」
冗談めいた話し方の割に彼は真剣だった。実現すれば将来認知症や脳障害で失われる記憶を取り戻すことができる、と。
彼とは生活習慣が近いらしく家の周辺で偶然会うことが多かった。初めは暗い印象だったが話してみると随分と親しみやすい人物で自然と交流も増えていった。今はとにかく勉強漬けの生活で研究室に篭ることもしばしばあるという。
ある日の休日、張田の家に招待された。彼の家の中にはノートパソコンやVR機材に脳波計、電極が繋がれたヘルメット様々なものが置いてあった。一介の大学院生が持つにはあまりにも多すぎる機材だが、大学から借りているのだと言う。
「だいぶお金に余裕のある研究室なんですね」
「その辺はあまり分からないですけど、そうみたいですね」
張田は曖昧に笑っていた。
「実は今日田中さんを呼んだのはですね、実験を手伝ってもらえたらと思って」
張田は電極を手でいじりながら私に伝えてきた。危険な実験はせず、サンプルに幅を持たせるために学生以外の人間にも実験をしたいのだと言う。
最初は断ったが、彼の熱意に負けて最終的に私は首を縦に振っていた。
「それじゃあいきますね」
頭にヘルメットを被せられ、部屋のベッドで横になる。張田がパソコンで操作をすると頭の中に映像が見えてきた。風船、夕食の魚、ベランダ……どれもありきたりな映像だった。
数分でヘルメットを外すように指示があった。
「どうでした?」
「どうと言われても、色々映像は見えましたよ。風船だったり」
その後張田は私にいくつか質問をし、ノートに何かを書き込んでいた。
別日、私はまた張田の実験に付き合っていた。前回のは記憶を入れる実験、今回のは逆の記憶を抜く実験をするらしい。
「取り出す記憶は今日の昼食のような些細なものですし、終わったらちゃんと何を抜いたか教えますからね」
そう言って張田はヘルメットを被せた。前回と違い今回は何も映像は見えず、記憶を入れたときよりも時間は短く感じた。
「何を抜かれたか分かります?」
「ええと、なんですかね?」
「昨日お風呂に入ったかどうかです。思い出せますか?」
私は少し考えてみたが一向に思い出せなくなっていた。綺麗好きというわけではないが寝落ちしたりしない限りは風呂にはきちんと入っている。ただ昨日に限っては入ったか入ってないかの記憶が完全に抜け落ちており断言はできなかった。
「大丈夫ですよ入ってました」
張田は笑いながらいう。それにつられて私も顔が緩むが、ふとあることに気がついた。
「張田くん、それってもしかして俺の記憶が全部丸見えってこと?」
「ああ!もちろんここでみたものは研究以外には絶対に使いませんよ。誓約書を渡してませんでしたね」
張田は申し訳なさそうに用紙を持ってきた。そこには長々と文章が記載されており、ここのどこかに記憶の取り扱いのことも書いてあるのだろう。
数日後、私は部屋の中に見覚えのないペットボトルを見つけた。買ったことを忘れたのだろう。そう思いゴミ箱に捨てたがまた次の日にも見覚えのないお菓子の空袋が部屋から見つかった。
「副作用が出ているのかもしれません」
きっと実験で何か異常が起きたのだと思い隣の部屋を訪ねると張田はそう答えた。
「記憶というものは独立して存在しているわけではありません。例えば、一つ消せばそれと連なった記憶が消える事もあります。逆もそうです」
なんでそんな大事なことを言わなかったのだ、そう詰め寄ると張田は先日の用紙を取り出した。
「ここに実験中の免責事項はしっかりと書いてあります。読まれていないんですか?」
今まで見せたことのない張田の圧に、私は思わず後退りする。この時から、この研究に少しずつ疑問を持ち始めた。
一度疑い始めると山のように違和感が出てくる。まず、張田が大学に行っているところを見た事がないのだ。有給をとった平日昼間、たまたま張田と部屋の前で出会した。
「あれ、大学は」
「ああ、オンラインです」
研究室に通い詰めと言っていた張田がオンライン?足早に自分の部屋に戻る治田の後ろ姿にやはり違和感を感じる。
ある日、私の郵便受けに張田宛の封筒が入っていた。大学名が書かれておりきっと研究室からなのだろう。張田の郵便受けに入れようとした時、封筒に書かれた名前が目に入る。
「徳田…院生?いや教授の名前か」
普通院生同士なら携帯上でやり取りを行うだろう。なのでこれはおそらく大学側の人間の名前の可能性が高い。
私はネットで徳田という人物を調べることにした。近くの大学に勤める教授らしく、心理学を専門にしているようだ。
居ても立ってもいられなくなり、私は次の休日に大学まで行ってみることにした。
「脳科学研究……ここだな」
私は大学の敷地内にある研究所を訪れた。受付と書かれた窓口に女性がおり、私は彼女に尋ねる。
「あの、すみませんちょっとお尋ねしたいことがあるんですか」
「ええ、ここの学生さん?」
「いえそういう訳では……実は私の郵便受けにこの大学からの手紙が入っていて、送り間違いかなと思いまして」
「あらそうだったんですね、わざわざすみませんね」
「それで、えーと徳田教授ですかね?この人から張田って方に送られてるみたいで、ここの研究室の人ですかね?」
「ちょっと調べてみますね……ん?」
女性の眉間に皺がよる。それと連動して私の心臓もドクンと嫌な音を立てる。
「張田って学生さんはここの研究室にはいないみたいですよ。学生名簿を見ても名前は載ってないですし」
「そんなはずは……」
「一応過去三年分も見てみたんですけどやっぱりないですね。あ、それと徳田教授からと仰ってませんでした?」
はい、と私が返事をすると女性の顔はさらに曇った表情になった。
「徳田教授、2年前に退職されてます」
私は頭の中が真っ白になった。やはり彼は何かを隠している。学生と偽り私に近づいた目的が何かあるはずだ。
私の身に起きている症状もきっと一時的な副作用ではないはずだ。彼に目的が何なのかを聞かなくては。
「ありがとうございます。あの、一応何か分かったら私に連絡お願いしてもいいですか。番号ここに書いてます」
「いえちょっとそのような事は……」
「それならまた後日伺います!」
「それでしたら……一応お名前控えておいてもよろしいですか?」
「川村です!すみませんよろしくお願いします」
「川村様ですね、分かりました……」
「……川村?」
「はい?」
「それ、私の名前ですか?」
「今ご自身で仰いましたけど……」
アパートに戻る最中、張田に電話をかけたが繋がらず結局一度もかからないまま張田の部屋の前まで来てしまった。
インターホンを押しても出ない。外から見えた彼の部屋には電気が灯っておらず今は外出しているのだろうか。私は一抹の期待を込めてドアノブに手をかけた。
ガチャリ。部屋に鍵はかかっていなかった。
誰もいないと思いつつも忍足で張田の部屋に入る。見慣れた部屋も実験器具も、今では全て怪しく見えてしまう。
しばらく物色したあと、実験中張田の定位置だった机が目に止まった。至って普通の机で特に変わった様子もない。机の下には引き出しが二個ついており、私は左側の引き出しから開けてみることにした。
中身は至って普通の文房具類で変わった様子もない。しかし、やけにプラスチックのようなカケラが落ちている。どこかで見たような。
不思議に思いつつも右の引き出しを開ける。するとそこには数十枚のプラスチックのカードがあった。表面は何も書かれていない白地だが、裏面の表記には見覚えがあった。
「運転免許証だ……」
張田はここで免許証の偽装をしていたのだろう。そして私に近づいてきたという事は……。私は震える手で引き出しの中を漁る。すると奥の方から一枚の紙が出てきた。小さく折りたたまれているが住民票と書いてある。
「〇〇市△△区……この名前……俺の」
ゴッ。
突然頭に鈍い衝撃が走る。私はたまらず倒れ込む。頭を抑えつつ振り返るとそこには男が立っていた。手にはカナヅチがある。こいつはきっと……。思考を巡らせる前に男が近づいてくる。私の体は思う前に反応していた。
「う……」
どれくらい気絶していたのだろう。強烈な頭痛と共に私は起き上がった。目のかすみが取れてくると、眼前にある張田の死体もはっきりと見えてきた。
張田に後ろからカナヅチで襲われたが、トドメを刺される前に取っ組み合いになった。うまく馬乗りになれた私は彼の首を絞めそのまま……。
どうすればいいのだろうか。正当防衛とはいえ勝手に部屋に侵入し大学で張田のことを嗅ぎ回っているところも職員にばれている。状況だけ見れば張田は泥棒に入られ抵抗したが殺された男に見えるだろう。どうすれば、頭が痛くて考えがまとまらない。とにかく……。
「はい。私です。今終わったようです」
「はい。処置についても滞りなく済みました。記憶一式田中に移せています」
「田中は死体を運びに行きました。方向的に山に行くのではないでしょうか」
「はい。次ですか。分かりました。そうですね足がつかないよう徳田と張田のセットはもう処分がよろしいかと……」
